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西部戦線 (アメリカ独立戦争) : ウィキペディア日本語版 | 西部戦線 (アメリカ独立戦争)[せいぶせんせん]
西部戦線(せいぶせんせん、)は、アメリカ独立戦争の間にアパラチア山脈の西側の地域(後の北西部領土)とケンタッキー、テネシー、およびミズーリで行われた一連の戦闘である。この戦線では、デトロイトに駐屯していたイギリス軍と北米インディアンが同盟を組み、オハイオ川南東のアメリカ開拓者達との戦いが行われた。アメリカ合衆国の独立との連動性が希薄な世界になっており、1783年のアメリカとイギリスの停戦後もインディアンと開拓者の抗争が続いた。 == 背景 == 1775年にアメリカ独立戦争が始まった時点で、アメリカ植民地とオハイオ領土の北米インディアンの間の境界は暗黙的にオハイオ川となっていた。この境界線の根拠は1763年宣言であり、イギリスの植民者がアパラチア山脈の西に移住することを禁じたものだった。イギリス政府は、フレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)の後に、フランスから新たに獲得した広大な領地でインディアンと開拓者の間に紛争が起こらないように宣言を発行した。しかし、アメリカの開拓者やイギリスの土地投機家達がこの制限に異議を唱えたので、イギリス政府は北米インディアンと2つの条約、1768年のスタンウィックス砦条約とハードレイバー条約を結び、オハイオ川の南に開拓者が入ることを認めた。これによってイギリス政府と開拓者の間の西部の土地政策に関する緊張関係は弱まった〔Rice, "The Ohio Valley in the American Revolution", in Thomas H. Smith, ed. ''Ohio in the American Revolution'', 5.〕。 オハイオ渓谷で実際に生活し狩猟を行っていたインディアンの大部分、ショーニー族、ミンゴ族、デラウェア族、ワイアンドット族は、1768年の条約に何の相談も受けていなかった。イギリスに自らの土地を売ったイロコイ族に憤激したショーニー族は、西部インディアンの同盟を結成し、彼らの土地を失うことを防止する活動を始めた〔Dowd, ''Spirited Resistance'', 42-43.〕。イギリスとイロコイ族の役人は、ショーニー族を外交的に他のインディアン部族から孤立化させるように働きかけ、1774年に起こったダンモアの戦争の時、ショーニー族は同盟族が少ないままバージニア植民地の民兵に敵対するはめになった。この戦いでバージニア側が勝ち、ショーニー族はオハイオ川を境界と認めざるを得なくなった。ショーニー族とミンゴ族の酋長達はこの条件を不服としていたので、1775年のアメリカ独立戦争の開始から間もなく、新たな戦いを始めた。
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